スピにハマって良かったこと

こんばんは!

 

私は昨年、スピにズブズブはまっておりました!!!

スピにハマってみて変わったことは、定期的に占いをしてもらうようになった、家に観葉植物が増えた、生活するなかで方角を気にするようになった、アートが好きになったとか色々あります。

 

何か物事を考える上で論理的に考えがちな私が、スピにハマるって割と珍しいです。

 

一見すると、ファッションスピに見えたり、性格がある意味丸くなったと思われたりするかもしれません。

 

でも私がハマった理由は、スピを論理的に解せたに近しいです。

 

スピへの違和感

そもそも私がスピに興味を持ったのは、スピへの違和感です。

 

「願えば叶う」でお馴染みの引き寄せの法則などは、私にとって理解し難く、それを唱えているサマを異様だとさえ感じていました。

それは私が理屈で証明できないものを信じない性格だからです。

 

でも、スピって割と日常的に忍んでいまして(特に沖縄は)。

 

私の家では旦那の家族が結構そういう、、、えっと、、、まあそういう見えないもの信じる側面もありまして!!!!(深くは言わない)

 

なので、住む地域や方角なども結構限定されていたようで、当初私が独断で決めた家とかは割と良い反応をされなかったりすることもありました。

 

あ・・・・その時の私の心境ですか???

 

「悪い気?悪い出来事?そんなん気の持ちようじゃい!!!!

 

もし幽霊や悪い気なんざこの家に入ってきたらワシがより強い気で跳ね除けたるわい!!!

 

こんなに家族みんなで頑張って生きてんのに邪魔されたらたまったもんじゃねえわい!!

 

覇気や覇気!!!!ワシがいる限り守られてるから安心せい!!!!」

とまあこんな感じです🤣

 

私は家族がすごく大事なので、相手が誰だろうとマジで許しません。

 

家族を守るためには見えない何かにだって勝つ気持ちでいるわけです。笑

 

ここまででお分かりのように、私はスピに対して違和感が強い方の人間でした。

 

ですが、昨年はとにかく変化を付けたかった年でありまして。

 

人間がガラッと変化するのに手っ取り早い方法は、真逆を行くことです。

 

人間って、何かの答えを出すのにも、何かを決断するのにも、今までの自分の経験のなかから判断しています。

 

一番わかりやすいのが「トラウマ」ですね。

過去の経験から良くない結果になったことや、良くない出来事を招いたことは、分かりやすく選択肢から除外されます。

 

けれども、実はデパートで目につくものなども、なんとなく目についたように思えて必然的に選ばれています。(この話は長くなるので割愛します)

 

とにかく、今までの経験を頼りに、脳が勝手に取捨選択しているのですね。

 

なので視野を広げたいとか、自分を変えたいとか、ステージを変えたいと思った時は今までの自分じゃしないことを選ぶことが最良です。

 

私が避けてきたことがズバリ、スピというわけです。

 

真実かどうかも見抜けないようなことを信じる気持ち、そこに人が集まる心理、全てに興味が沸きました。

 

スピへの解を求めたんですね。

 

私なりのスピへの解

最初はまあ、「根拠は???」みたいなことばっかり考えてしまって、うまく馴染めなかったです。

 

でも答えが出ない物事なんてないと踏んでいたので(だってみんなも今までの人生、山あり谷ありだったと思うけど、なんとかなってきたでしょ?)、

 

とにかく無理矢理生活にスピを取り入れ続けてきました。

 

そして見えてきた答えは、「感情が出てきたこと、出た感情自体が正解」ということですね。

もっと具体的にしましょう。

 

まずスピに入り込んで私が一番に取り組んだのは、観葉植物を育てることです。

 

観葉植物って意外と育てるの難しいんですよね。

 

水をあげていても、買った時より明らかに葉が枯れ始めてきて、しかも茎から枯れるような寿命的な枯れ方ではなく、葉の一部が枯れるみたいなことが起こりました。

 

生き物に元気がないって、いやじゃないですか。笑

 

一生懸命に原因を探して、季節に合わせた育て方とか学んで、そのおかげで今は超元気に育っています。

そのときにふと気がついたことがあります。

 

観葉植物が良い気を巡らせているとか、悪い気を吸ってくれているとかは目に見えないし根拠はないけど、

 

生き物を大事にする姿勢が生まれたり、自分以外のことを一生懸命考えたり、自分以外のことに時間を使ったり、生き物が元気になって嬉しかったり、

 

そういう気持ちが出ていること、日常の中に自分以外の事柄が入り込む時間が増えたことは明らかな事実なわけです。

 

毎朝起きて元気に育っていると嬉しいし、確かに気分は良いです。笑

 

だから自分なりのスピへの解は、

 

観葉植物を育てたら本当に生活が良くなった!とスピを効果として証明できたというより、

 

観葉植物を通して私の人生のなかで良い選択が増えたから、生活が良くなったといえるという感じです。

 

なので今のところの体感でいうと、スピの効果とされるものは個人の結果論でしかないということです。

 

人によって「良い効果があった」「成功」とするレベルが違うから、絶対とは言い切れないのがこのマーケットのボヤッとした部分をつくっているのだろうと感じます。

 

左脳の人

信じる人と信じない人がハッキリしてるのは、まさにこのボヤッと感の影響ですね。

 

もし左脳(論理)の人で、尚且つ「引き寄せの法則」が嘘だと考えている人に説明するとしたら、

 

「100人に引き寄せを伝えて、10人が実践して、そのうちの2人が本当に成功したとしたら、その2人がそれを成功論として唱え始めます。

 

つまり10人に入った人しか、引き寄せによる成功は掴めないということです。」

 

みたいな感じで、嘘とは言い切れないことを説明できる(そういうしかない?)ような気がします。

 

実際、今までの私が「気の巡りを良くするという根拠(正解)があるなら、スピ的なことします」という考えていたとすると、

 

事前に根拠や正解が提示されない以上、観葉植物を育てるという選択肢は一生なかったでしょう。

 

でもいざやってみると、「観葉植物を育てた先に芽生えた感情こそが、スピの価値」に変化しました。

 

けれど、それは万人に共通して得られる効果とはいえません。

 

そもそも観葉植物を育てたとて、私自身がその感情に気付けなかったり、それこそが価値だと感じなかったりしたら、「スピは嘘。まるで無意味な行動をした」と思う結果になっていたでしょう。

 

スピという抽象的な物事を実践して、私にとって価値があるという解を得られた理由は、

 

「自分以外の物事に優しくしてる人は必ず幸せになるべきだ」と信じてる私の哲学(個人の学問として)にハマったからなんですね。

 

あとは、上手く行ったことや良い巡り合わせを何かのおかげといえるセンスも好きです。

脳の両軸

こうやって思うようになると、今まで制限かかっていた視野が広がり始めます。

 

自分がしてこなかったことをすると、今まで体感したことない感情にたくさん気付けるという体験が、また新しい体験への意欲を生みます。

 

なので最近は割と意味ないことに時間やお金を使っています。

 

今まで絶対無駄だと思っていたキャラクターのコレクションとかもですね。あと旅行も。笑

今までが「根拠→行動」だとしたら、今は「行動→自分なりの意味付け」となっているので、行動のハードルも下がりますし、無駄なことは何一つないと感じられます。

 

アメリカと日本の学力を脳科学的に捉えたものに、信仰心(右脳)と左脳の両輪の強さを唱えているものがあります。

 

簡単にいうと、感情→論理→行動→感情→論理・・・みたいな感じで、何をするにも「感情」がセットである方が良いというものです。

 

努力する過程では、「自分ならやれる」と自分を信じる気持ちとか、あとは「先祖が見守ってくれている」という信仰心もそうですね、そういうものがあるから人は進んでいけるということです。

 

だって、片脳より両脳使いの方が効率良いじゃないですか流石に!!!

 

「自分が家族を守る」とセットで「親戚の言い伝えも大事にする」が最強だし、

 

「自分の努力や才能を評価する」とセットで「みんなのお陰とする美的センス」が最強というのが腹落ちしたんですね。

 

そういう理屈がハマったのもあり、右脳が強化するだろうと踏んで、感覚的に無駄っぽい行動して、左脳で納得するみたいなことを繰り返しています。

 

そしたら見事に色んなことにハマりまくって割と楽しいです。

 

とまあこんな感じで今日は終わります!!今日の記事は書くのが難しくて、意味不だったように感じますが、、、見てくれた人いたら嬉しい🤣

 

ではまた!

 

旅行に行くことにした!!!(決意表明)

みなさんこんばんは!


私、来月に旅行に行くことにしました。

まあ国内なので、一般的には大々的に言うことではないんですけど、、、。

 

だって私は大の旅行嫌いなんですもん。大々的に言わせてよん😭

 

今までは「思い出作り〜」とか言うて、今の旦那と交際期間中には沖縄の離島とか東京とか行ってたんですけど。

 

やっぱり家が良いな、家で一生寝てたいなとか思ってました。(最悪。笑)

 

旅行中だと必然的にずっと誰かと一緒にいるのも無理!!!(最悪!笑)

 

「予定」が嫌い?人が嫌い?

そもそも私、社会不適合者なんですね。

 

みんなで予定を立てようとする流れになって、その場の空気で「うん!」とか言ってしまうと、その日からもう憂鬱で憂鬱で仕方なくなってしまいます。

 

そんな感じなので、自分でも「私、きっと、人が嫌いなんだ」と思い込んでました。

 

だから最近結構悩んでて🤣(自分の異常さに頭抱えるんですね🤣)

でも悩み過ぎてたら、一つの疑問が浮かびました。

 

「あれ?私って自分が好きな予定も嫌いじゃね???」ということに気がつきました。

 

私ネカフェが好きなので「ネカフェ行きたいな〜漫画読みたいな〜」ってよく独り言を言います。

 

そのときの私は、本心でネカフェを望んでいます。

 

でも旦那が「じゃあ次の休みに行こうか?」と言ってくると、途端に行きたくなくなるという不可解過ぎる状況に陥ります。

 

多分人には「こいつ人と会いたくないんだな」「俺と行きたくないんだな」と誤解されがちだと思うし、

 

私も「まあ人と会うと気も使うし、会いたくないのかも???」みたいに思ってました。

 

でも、自分との予定も嫌だなと気づいてから、もしかして私は人が嫌いなんじゃなくて、予定化されるのがすごく苦手なのでは???と思い始めました。

時間を守らなきゃいけない拘束感がすごく苦手です。

 

あと、外出が嫌いというより家が好きが優っているからというのも考えられます。

 

私は多分本気の自由人なんですね。

 

理由がないと動かない

でも人生って、嫌でも外に出なきゃいけないときってあるじゃないですか。

 

なんか旦那が「久しぶりに旅行行きたくない?」って言い出したり「子供達喜ぶよ?」って追い打ちかけてきたり、、、、笑

 

その時私はいつも

 

「その旅行って30万払う価値あるのか」とか

 

「事故に合うかもしれないリスクを考えても、旅行という感動や楽しみをとるのか」と考えてしまうんですね。

そう考えていくうちに「人ってなんで人に会うの?」「人ってなんで旅行行くの?」とか思い始めるわけです。

 

自分では到底答えに辿り着けません。

 

なのでそれを周りに聞いてみると「楽しそうだから」「気分転換に」と言います。

 

私の頭の中では「危険を冒してまで!!!!?」「気を使ってまで!????」みたいなことが浮かんできます。

 

そして溺れます。

 

不可解に溺れ過ぎて馬鹿みたいに闇堕ちするんですね。

 

そしたら今日いよいよ新しい問いが生まれました。

 

「そもそも理由がないと、てめえは外にも出ねえのか??理由うがねえと人にも会わねえのか??」と。

私の論理的な部分が自滅しました。

 

というか、理由がないと人に会わないみたいな”薄情っぽい自分”を否定したくなっただけかもしれません。

 

とにかく、メリットやリスクは並べようと思えばいくらでも並べられるし、リスクなんて考えない人の方がほとんどだろうし、リスクに勝るメリットなんてそもそも無いんだろうし、

 

普通は「楽しそう」とかその感情自体が動く理由で良くね?って感じなのかな???なんて人っぽく考えてみました。

 

でも今までの自分を否定してるわけではなく、

 

人間としてリスク管理できてるって良いじゃん!!その思考も本能的に刻まれているわけだし致し方ないじゃん!!と自己肯定しつつ、

 

でも、まあ、今みたいに論理的に生き過ぎて苦しいときは、感情のまま生きてみるのもアリなのかしらって言い聞かせてみてる感じです。

 

だいぶ消去法的な選択ですね。🤣(こんなやつと旅行行きたく無いですね。分かります🤣)

 

でも思い返せば、私割とパーティピーポだったんですね昔は。

 

馬鹿みたいに酒飲んで歌って、踊って、青アザばっか作って朝帰りしてましたよく。

 

あのとき、確かに楽しいだけが動く理由だったし、楽しいと感じていたのも本当です。

 

だから、理屈として言える理由はないけど行ってみるとか、理由は分からんけど楽しいとか、感情だけが正解みたいな生き方にもう一回帰ってみようかなと思いました。

何にでも理由とか根拠を求める私には、感情完結みたいな形は中途半端に思えて仕方ないしムズムズして仕方ないですが、一旦人っぽく生きます!!!

 

とりあえず行ってみる

前々から旦那が「旅行行きたーい」って言ってたので、今回はokしてみました。

 

今でもだいぶ心の中はざわついてます。

 

旅行に出る自分を想像すると「はあああああやっぱり家がいいよううううう」って思ってます正直。

 

重い荷物引きずって、寝慣れない寝具で寝て、次の日の予定に合わせて起きる時間も予定化されちまう。

 

でもね、もう知らない。

 

とりあえず安全な最善策としてANAで行くことにするし、あとは無事楽しんで帰ってこれれば良いや。

 

(私は息はしてないかもしれない。笑)

 

「楽しい」それだけで良いじゃん!!!?みたいなpeace界隈に飛び込んでみます!!!🤢

 

以上、決意表明でした(`・ω・´)ネガティブな記事でごめんね🙏🏻

書くと良いこと〜ヒロアカに無理やり繋げてみた〜

おっす!

 

「最近更新頻度たけーなー」

 

なんてお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

私は非常に波がありまして。

 

あれやこれやと考えが止まらない周期みたいなのが定期的に訪れます。

「何か考えることないっけ?」みたいな感じで、考えることを無理に引き出そうとしている節まであります。

 

異常の極みですな。

筋トレ

というのも、思考は筋トレだということに気がつきました。

人が何か物事を考えるとき、物事はその人の中での「デフォルト」に則って処理されています。

 

つまり考えること自体は負荷がかかっているように思えるけど、本能的なプログラムにおいてはその人にとって「より軽い考え方で」物事は処理されています。

 

なのでデフォルトに頼ってると、いつも使っているところだけ発達して、その他が弱まってしまうということです。

 

私が今年に入って「感じたことや考えたことを書く」という作業を進めている理由は、それですね。

 

なんなのこれ日記?

実は旦那にもこの記事を読んでもらってるんですけど、、笑

 

旦那の感想はいつも「なにこれ日記なの?よく分からんかったから飛ばし読みした!」みたいな感じです。笑

 

正解です。

 

そもそもマーケティングやライティングにおいては、文章を真剣に読む人はそうそういないということが大前提として設定されています。

 

なので読まない、よく分からない、が正しいです。

 

「でも読まれなかったら意味ないんじゃ???」と思うかもしれませんが、私の文章という色は変えてはいけません。

 

一般的に「この人に読んでほしい」が正解で「全員に読んでほしい」は不正解だから。

 

でも私が変えない理由の大部分は、「合わせるつもりは毛頭ない」というアーティスト的にここでは書きたいからです。

私は日頃、リサーチで得た事実を最適な形に考えて書く作業をし過ぎているから、思ったままを出す練習をしたいと思っています。

 

というのも「感じる→考える→書く(または話す)」の過程において、人は自分が思っている以上に”良い感じに”出そうとします。

 

悩み相談なんかそうですね。男女関係やお金事情とか特に。

 

相手の悪さを強調しているようで、実は「その人が言わんとしているところ」が浮いていたりします。

日記的に表出したいままを出すことで得たいのは、「感じる→考える→書く(または話す)」の速さです。

 

感情や思考はそれだけで抽象的なのに、”良い感じに書きたい”という雑念のせいで、書く難易度がより高まります。

 

具体的な事柄を考えて綺麗に出すことを極めてる一方で、感情のままに出すことで思い描いている未来は、感情や思考をできるだけ速く、綺麗に出せることです。

 

その結果その状態が私にとっての「より軽い物事の処理(デフォルト)」になるだろうと踏んでいます。

 

過去からは逃げられない

何か悩みに遭遇したときも、何か行き詰まったように感じたときも、人はより簡単に処理しようとします。

 

そのときに出た答えは、いつもの考え方(≒過去の思考習慣)から引き出されたものということです。

 

しかし「前にもこんなことあったな。」「自分はいつもこうだ。」という停滞感を招きがちです。

 

その停滞感を払うためには、新しい方法論が必要です。

 

「あの人だったらこういうときどうするだろう?」と考えるのは、自分にない新しさが必要だと分かっている証拠といえます。

そのときにやりがちなのが別の方法論探しです。

 

しかし、そもそも方法論は枝葉でしかありません。

 

その幹になっているのは習慣化された思考(デフォルト)です。

 

今までと違う考え方や方法が単に組み込まれることは、応急処置でしかなく応用が効かないので、別の悩みが生じたときにまた足が止まります。

 

しかし、新しい方法論に適した思考が習慣化されることは、長い目で見るとデフォルトが入れ替わることを意味します。

 

そうすると人生は結構イージーモードです。

解決策になるものを、無駄だと思っていた物事からも探そうとするという変化が起こるから、答え探しが上手くいきやすいです。

 

今まで無駄だと思っていたことが重要になったり、重く感じていたことがどうでも良くなったりすることは、デフォルトが変化していることを現すのですね。

 

余談(ヒロアカハマってる話)

ヒロアカ見終わって生き甲斐を失っている私ですけど。。。笑

 

デクってめっちゃ強くなってくじゃないですか。

 

ワンフォーオールの出し方を覚えてきて、出力の%を調整できるようになったのも強さの秘訣ですが、

 

飛び方とか、空中での立ち回りをうららかさん達から教わるシーンが、やたら後半に出てきていました。

 

あれってまさにデフォルトの変化に伴って、不必要が必要に変わったことが現れてると思うんです。

 

人の原理として、そのときに必要だと感じたもののみが選ばれ、情報として取り込まれているというのがあります。

 

情報は無意識に選別されているのですね。

 

なので「全部無駄じゃないかも?!」と意識的に拾う行動を繰り返していたら、自然とデフォルトが塗り替わって、割となんでも楽になります。

 

歪みまくった感性でアニメを見ていることが分かったところで、今日は終わりますー!

 

じゃ!

先輩去ったし、アダルトチルドレンの本読んだ

おっす!

 

前回の更新が1/1・・・。一ヶ月も空いてしまいました( ^∀^)

 

この調子じゃ一年で12更新しかできないので、遅過ぎですね!

 

看護師を辞めて早3年・・?webの仕事を始めて2年目となります。

 

最初はアフィリエイトジャンルから始めてやっと今があるわけですが!

 

私の憧れの先輩とお仕事が離れてしまって、少し寂しい一週間を送りました( ;  ; )

 

久しぶりの気持ちです。

 

看護師辞めまして

 

お別れってなんで寂しいんだろう?

 

誰かが自分のいる世界から離れることでの、胸のざわめきってなんだろう?

 

こう考えてると行き着いた答えは「焦り」でした。

 

看護師を辞めたとき後悔なんてなくて、むしろ「やっと私になれた!」って気がしました。

看護師を嫌いだと思ったことはないし、「あの先輩キモい!!」って人間に不満があったわけではありません。

 

むしろ私はいつも人に恵まれていると思っているし、同期に尊敬できる人がたくさんいる世界でした。

 

社会的に信用のある仕事、公務員という安定性、「人を看る」という役割。

 

優しくないと、強くないと、責任感がないと務まらない仕事ですね。

 

でも、私自身ただただ「看護師である私」に納得してなかったんです。

 

人生ぐらいカッコつけたい

 

看護師のやりがいとしてよく聞くのに「人に感謝されること」があります。

 

私の中でのやりがいに、一般的なそれがフィットしなかったのかもしれません。

 

なんでかって考えると難しいけど、「助けるべくして助けた必然」に感謝が重なる光景に違和感がありました。

 

それは多分私の良くない癖のせい。

 

昔からそうなんですけど、たとえば私が地上を歩いているとして。

 

その時に映る視界は、自分が地上を歩いているというより、自分が、地上を歩いている自分を見ているという感じで、少々うがった見方をする癖があります。

 

だから看護師をしているときも、誰かを助けている自分がいるというより、病院の一室で私と患者さんが、助け助けられている状況にあるという場面が映されている、みたいな感じ。

監視カメラで捉えた映像のように見る癖のせいか、すごくカッコつけなんですな。笑

 

映っている世界がちゃんとカッコよくあるようにしたいんです。

 

必然的な助けよりも、偶然と機転がもたらした奇跡の助けみたいなのに憧れちゃうわけです。

助けってそんなに大きいことじゃなくても良くて、ただ普通に生きていれば「困ってそう」って思う場面はあるわけで、、

 

そこさえうまくできればなんとなく人生気持ち良いです。

 

一般的な社会って

 

「助けなさい、そういう役割だから」

「助けなさい、そういう場面だから」

 

みたいな決まりがないから、気づき勝負・機転勝負・勢い勝負・タイミング勝負・巡り合わせ勝負みたいなとこがあります。

 

だからこそ、できるかできないかは超個人差でます。

 

そもそも運命的な要素も絡んでいる以上、人の力になれる場面に出くわさない人もいます。

 

だから、ここぞという時にそれをつかめたら最高に気分が良いです。

 

私はそうやってカッコつけられるときに、しっかりカッコつけて、さっと逃げたい。笑

 

もっと言えば、どう足掻いたって一回きりの人生では、多くのことができる、多くの人を救えるなんて無理だと思っていて、、、

 

結局は自分の視界に入った物事・人にしか手に届かないです。

 

どんなに大きい物事を成し遂げたと思っていても、それは視界の範疇でしかないわけです。

 

それなら、視界に入った分だけはカッコつけておきたいなと思ってます。

 

視界に入った時点でそれは多くない運命だし、奇跡的なタイミング。

 

それをキャッチできたら私気持ちい→向こう感激→はい、win-win、みたいな笑。

 

web業界でMくなる私

 

今の私の仕事では、リサーチする、書く、考える、指摘する、整える、みたいなことを一生やってる感じです。

 

この仕事のやりがいは、上には上がいて、その上にはどんな上がいるのか想像つかないところです。

 

そして周りを見なくても回る世界だからこそ、周りを見ることさえ味方につければカッコつきます!笑

 

私は褒められることになんの快感も感じなくて、(ちょっと性格悪い人みたいで言いたくないけど、むしろなんで人間はそんな会話するんだ?なんの意味があって?とか思っているくらい。すみません。。)🤣

 

私の中で褒めは何も生まないけど、傷・悔しさ・苛立ちって物凄く物事を動かすパワーになると思っています。

 

この仕事をしてると、上の人が見えている世界が見たくて見たくて仕方なくて、でも届かなくて毎日悔しいです。

 

だって私超超超頑張って、やっと、本当にやっとの思いで今があると思ってますから!

 

やっとの思い出大手触れるようになって、そこで憧れの人に出会って、ついてくのに必死で何が何だかわからないまま仕事して、

 

やっとのやっとで役割もらえて、人にあーだこーだ言えるようになって、そしたら憧れの人が先日別の業界に行ってしまって、、、、!

 

「あなたを追いかけてきたんですよ私!!!!!!!!!???」となったわけです。

 

私にとってこの今の仕事はすごい大きいもので、簡単に就けるものでもないと分かるからこそ、

 

辞めようと思った人の視界が益々知りたくなるわけです。

 

そんな力を持った人は次にどんな世界を目指せるんだろう?どんなことできるんだろう?

 

それを手にするには何年?私には何が足りないだろう?みたいな感じで、上がいるほど焦ります。

 

私の心は寂しいんじゃなくて、焦ってるんですな。

 

余談(感情決めつけ女の話)

 

なんか人って、「哀」の感情ほど一緒くたにしがちだと思うんです。

 

誰かが泣いていると、その人が悲しいと断定しがちだし、親族が亡くなると、悲しいと断定しがちです。

 

私ちょっと前にお母さんが亡くなったんですけど、その時誰かに「寂しいでしょ?」って言われて、

 

「いや、でも、、、」って言いかけた時に「でもやっぱり寂しいでしょ?」って重ねられたから、「ああ、はい、、、」っていうしかなかったんです。

 

別に誰もが完璧に私の気持ち分かるべきとも思ってないけど、感情の決めつけって弊害大きいですよね。

 

たとえば子供がスポーツで負けて泣いている時に「悔しいんだろ?じゃあ練習頑張れ!」って言ったとして、

 

本当は「もう辞めたくてたまらない泣き」だったとしたら。子どもは否定できませんね。

 

親の決めつけで、やりたくもないスポーツに数年費やすという意味不明な期間を子どもに送らせてしまうわけです。

 

そして、我慢できなくなった時に「辞めたい」と言い出したら、「逃げだ!」「こんなに道具揃えたのに!」みたいな、決めつけとヒスの炸裂は想像に難しくないです。

 

最近アダルトチルドレンの本を友人から借りました。

最近は「自分が何をしたいか、何が好きなのか、何が楽しいのか」さえ分からない状況って起こりがちですね。

 

その本読んでたら子どもの頃に親ができることって、見つけてあげることだと思ったんです。

 

泣いていたら、「悲しい?」「悔しい?」「寂しい?」「嬉しい?」どんな感情が言葉にフィットするのか選んでもらうこと、

 

これがフィットしたんだね、そっかそっかってそのままを受け取ること、

 

出たままを正解とすること、そこに差をつけないことかなって思うんです。

 

決めつけの何が一番怖いかというと、親に感情を決めつけられてると、その子自身もその感情が本当だと誤解して生きていってしまうことです。

 

後々「生きがい、やりがい、好き」にフィットしてない感覚を自覚した時、

 

取り返しつかない無駄な時間を過ごさせられてきた感、制圧に気づいた感は大きいのですよ。

 

そして、自分の気持ちを深く分かる状態(=〇〇が好き、〇〇な気持ちが言える状態)にする方法は、自分の感情での練習に尽きます。

 

先輩が去ってザワザワするのは「寂しい」んじゃなくて、「焦る」が自分にとっての適切だと明記するのって、割と自分にとってすごく意味があります。

 

とまあこんな感じで今日は終わり!!

最近ヒロアカにハマってるから、次はそれ書こうかしらね♩

 

 

 

 

 

 

感情の先に欲を認知する。低俗な感情と高尚な志。

明けましておめでとうございます!!!

 

元旦からパソコンに向かう自分にびっくりしてる。

2023年を振り返ってると無神経に書き殴れる場所が欲しくなって、3分後にはここに書き始めてる(今ココ)。

 

年末年始に差し掛かると、SNSでは多くの人が今年はどんな一年だったか表現し始める。

みんな書く前に「今年はどんな一年だった?」って自問自答したと想像できる。

 

でも今年SNSで表出された振り返り文からは

 

  • 単に、例年通りどんな一年だったかを自問自答した
  • みんながSNSでそう語り出すから、「自分はこうだったよ!!」となんとなく語りたくなった

 

っていうパターンとは違う感情が現れているように感じる。

 

どちらかといえば「私は今年どんな一年にできた?」のニュアンスで自問自答したことが透けて見える気がする。

 

なんでニュアンスが変わったんだろう???って考えると、それはみんなが30代前後になったからだろう。

 

20代の頃なんて、みんな絶対年越しジャンプの画像載せちゃってるヤリラフィー系だったじゃん???

 

「年越し地球にいなかった!!!」と叫んでクソ楽しくて、人生謳歌してて、酒飲んで騒いでる時間に人生の不安なんてなかっただろうなと過去を振り返る。笑

 

そんな様子をSNSに載せる感情は、

「楽しいを友のみんなに共有したい!みんなハッピニュイヤ!!!飲み行こうぜ!!!」という種類だったと思う。

 

リア充アピのような「楽しんでる私を認めてほしい」の顕示欲ではなく、

 

ただ純粋に「みんなと遊びたい!みんなと居たい!みんなと飲みたいよ!!」っていう、

 

”愛情を表現したい”、”遊びたい”というもので、愛と所属の欲求から来ていた表現だった。

 

それに反して今年感じるニュアンスは「愛と所属の欲」「自己顕示欲」などに該当するものではないと感じる。

 

「人生に、選択に、歩みに”納得したい”」という感情(欲)から生まれてるものだと映る。

 

 

だって30代前後は仕事にも慣れて、自分なりの当たり前を確立できて、この先の人生どうアレンジできるか考え始める頃だ。

 

というより「自分の人生自分次第でアレンジできる」と分かり始めて、「この先の人生を私は”もっと良くできる”」と未来を描けるようになる頃。

 

みんな、自分の人生の主導権を完全に自分が持ってると体感しながら生き始めるのがこの年代だ。

その層にあるが故に、この一年、いろんなことを決めて、動いて、変化して、進んだんだろう。

 

その人生の動きから、「私は今年どんな一年にできたか」という自己評価チックなニュアンスの問いが生まれ、

 

そして他人に表出された文章からは「今年起こった変化や決断に納得したい」を感じる。

 

過ぎ去った一年、もしくはこれから来る一年に「”ちゃんとできた”と思いたい」という感情(欲)があるんだろう。

 

(人間は、相手からの問いに「はい」を一回言うと、次の問いにも「はい」と言いたい(一回出した決断を一貫させたい、決断に納得したい)という本能があるらしい)

 

人間は不安を持つ生き物だから、みんな自分の人生に納得したいし、安心したいし、期待したいもんね。

 

===

 

私は毎年割と「振り返り文」「抱負文」を書いてきた人間なんだけど、今年は自分の持つ感情に適した表現が見つからず、表出できずにいる。

 

ただ、パッと思いつく表現でいいなら、「私の人生デキ過ぎているな」かな。

 

昨日旦那になんとなく思いついた感情をポツポツ話したの。

 

「こう在りたい、こういう未来にしたい(未来に期待したい)って思えることは、すごく贅沢なことだと思う。

 

だって、25歳で妊娠して、結婚して、それだけでも出来過ぎているのに、

 

今年は子供たちの未来のために習い事を選んで、悩んでさ。

 

悩めることも、未来のために選択できる現状があることも、言い換えれば、未来に費やせる時間も労力もお金もあるってことでしょ?

 

こういう日々ってすごく贅沢なことだよ。

 

誰もが望んで、努力すれば必ず得られるものじゃない。

 

計画的にいかないのが当たり前な人生で、タイミングとか、運命とか、巡り合わせとか、いろんな奇跡が重なってて、

 

結婚できたとしても両家の価値観が合わないことなんてたくさんあるのにさ。

 

愛情がある両家に恵まれて、みんなに子供たちが愛してもらえてさ。

 

現状だけでも全部が出来過ぎてるのに、こうやって良い未来のために気力・体力・時間・お金が費やせるって、すごい幸せなことだよ。」

 

これは、現状に満足してるダメな私とも捉えられるね。

 

だけど、なんかダメと思えなかった。

ただ普通に今の私の素直な感情として受け入れられた。

 

 

===

 

さて、今年の振り返りにおいてみんなの文章から自分の感情と最適な表現を探しているうちに、現状に満足することをダメと捉えてる自分の価値観に遭遇。

 

なせダメと捉えてるのか?というと

 

  • 安定が故の怠惰を許せない自分がいるから
  • 自分なりの目標、逆境を超えるエネルギーこそ今までの私だったから

だと思う。

 

でも、じゃあどうして今の私の素直な感情として受け入れられたのかというと、

 

「自分なりの目標、逆境を超えるエネルギーで作られた私」

「何も超えなくて良いというライフステージ」

 

に変化したからだろう。

 

これまでの人生は、正直、逆境の連続だった。

 

ざっくり書くと

 

誕生→離婚→母親のために(お金のために)何でもした青春→看護師になっても、この家族に生まれた以上、お金の問題に悩まされ、平等な自由が手にできないと感じた20代→母親の脳梗塞を機に、親戚から聞かされた”母親のギャンブル依存”→これまでお前を信じてお前のために捧げた青春、私の人生を返せと心からの恨み出現→そんな中始まった母親のがん闘病生活、在宅介護生活、そして看取り。

 

母親の裏切り、信じていた人間からの裏切り、取り返しのつかないほどの時間や感情を奪われてきたと感じたとき、人生を振り返った。

 

兄弟の学費のために被災地で季節労働に行くと決めた時、看護学校にいきながら借金返済のために夜職を始めたとき、

 

それを知ったおばさんが私を止めてきて、それに反して母親が喜んでいたことを思い出して、全ての過去が繋がった。

 

そうすると

 

  • 母子家庭なんだから母親のために生きるのが正しい。
  • 専門学校は行くな。学費がかからない大学を目指せ。

 

そうやって何も知らない人間(教師・友人)が押し付けてきた「正しさ」に自分が潰されてきた過去をめちゃくちゃ恨んだ。

 

でも、今は、恨みなんてない。というか、学生時代なんてみんな未熟だし、教師にだって凝り固まった正義に支配されている人だっている、私含め誰しも良くも悪くも歪みがある、だから仕方がなかったんだと思う。

 

今は、逆境が私を作っている、逆境が私を守っていたと感じている。

 

逆境があったから、乗り越えようと思った。

不平等な社会が辛かったから、頑張ろうと思った。

目標のためには確実に進んで行こうと思った。

 

それが今の自分を作っている。そして今の自分は幸せだ。

 

つまりそれは、母親が作った逆境が、今の私の人生の土台になっていたということ。

 

「恨み」という強い感情が、私が頑張って生きていくための原動力になっていたということ。

「恨んでいる相手」が、私の人生を作るお守りになっていたということ。

 

今の幸せは、母親の上に成り立っていたと気づいた。

 

===

 

最初は恨んでいる人がお守りなんて、認めたくない事実だった。

でも考えていくうちに、そこに行き着いた。

 

2022年に母親が亡くなって

2023年に母親が飼ってて引き取った猫がなくなったとき、

 

母親が関わっていた物事、私と母親の間にあった物事や生命が一つ一つ消えていくのを感じた。

 

そのとき寂しさもあったけど、それと同時に、これから作られていく世界が私の価値観・判断・感覚に委ねられるという恐さ、責任の重さを感じた。

 

原動力、頑張ってきた方法、相談相手を失って。

これからは自分の中から原動力を生み出して、頑張り方を考えて、1人で決断して家族を幸せに導いていかなきゃって焦った。

 

母親という存在がもたらした逆境、恨み、反骨心からの脱却が、私の価値観・感覚・決断で生きていかなければいけない未来を見せた。

 

「自分なりの目標、逆境を超えるエネルギーで作られた私」

「何も超えなくて良いというライフステージ」

 

これは、超えるべき逆境が無くなった末の必然なのかも。

 

(てかむしろ、みんなそうやって人生歩んでるのかな、これが普通なのかなって初めて気づいた。)

 

今までの私は、現状に満足してはいけない、超えなきゃいけない、目標をなんとしても達成しなければいけない、に支配されて(お守りにして)生きていたけど、

 

そんな私が「私の人生出来過ぎているな」「今ある現状がただただ幸せじゃん」って現状に満足してる自分を受け入れられるのは、

 

母親というお守りから真に脱却した証なんだろうと思う。

 

===

 

そんな感じを踏まえて、私の2023年は、凄く出来すぎていて幸せな人生でした。

 

経験や思考、運命、ご縁、自分に授けられた全てに感謝できる今。

 

これから先は、負を根源として正に進んだエネルギーの作り方ではなく、感謝と愛情を根源とした正に進んでいけると感じている。

 

ただ、負が持つエネルギーも信頼してる。

 

「負けたくない」「悔しい」「見返したい」が正に傾くなら味方につけるべきで、恥ずることはない。

 

低俗な感情だって良い。

むしろ「人に感謝されたい」みたいな高尚な志なんてなくても良いよって。

 

ただ、知らず知らずのうちに、それが頑張らなくて良い言い訳になってしまわぬよう、

 

愛情と感謝を持って、大事なこと、大事なご縁、大事な生命を守っていくためにエネルギッシュに生きることは辞めない♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪

 

 

ここまで読んでくれた強者がいるのか知らないけど、そういう強者・変人は大好き🤣(文句じゃないよ、愛情表現)

 

読んでくれてありがとう^ ^

 

昨年はたくさんありがとう!!!

今年もみんなにとっても、わたしにとっても良い一年になるよ!!!