先輩去ったし、アダルトチルドレンの本読んだ

おっす!

 

前回の更新が1/1・・・。一ヶ月も空いてしまいました( ^∀^)

 

この調子じゃ一年で12更新しかできないので、遅過ぎですね!

 

看護師を辞めて早3年・・?webの仕事を始めて2年目となります。

 

最初はアフィリエイトジャンルから始めてやっと今があるわけですが!

 

私の憧れの先輩とお仕事が離れてしまって、少し寂しい一週間を送りました( ;  ; )

 

久しぶりの気持ちです。

 

看護師辞めまして

 

お別れってなんで寂しいんだろう?

 

誰かが自分のいる世界から離れることでの、胸のざわめきってなんだろう?

 

こう考えてると行き着いた答えは「焦り」でした。

 

看護師を辞めたとき後悔なんてなくて、むしろ「やっと私になれた!」って気がしました。

看護師を嫌いだと思ったことはないし、「あの先輩キモい!!」って人間に不満があったわけではありません。

 

むしろ私はいつも人に恵まれていると思っているし、同期に尊敬できる人がたくさんいる世界でした。

 

社会的に信用のある仕事、公務員という安定性、「人を看る」という役割。

 

優しくないと、強くないと、責任感がないと務まらない仕事ですね。

 

でも、私自身ただただ「看護師である私」に納得してなかったんです。

 

人生ぐらいカッコつけたい

 

看護師のやりがいとしてよく聞くのに「人に感謝されること」があります。

 

私の中でのやりがいに、一般的なそれがフィットしなかったのかもしれません。

 

なんでかって考えると難しいけど、「助けるべくして助けた必然」に感謝が重なる光景に違和感がありました。

 

それは多分私の良くない癖のせい。

 

昔からそうなんですけど、たとえば私が地上を歩いているとして。

 

その時に映る視界は、自分が地上を歩いているというより、自分が、地上を歩いている自分を見ているという感じで、少々うがった見方をする癖があります。

 

だから看護師をしているときも、誰かを助けている自分がいるというより、病院の一室で私と患者さんが、助け助けられている状況にあるという場面が映されている、みたいな感じ。

監視カメラで捉えた映像のように見る癖のせいか、すごくカッコつけなんですな。笑

 

映っている世界がちゃんとカッコよくあるようにしたいんです。

 

必然的な助けよりも、偶然と機転がもたらした奇跡の助けみたいなのに憧れちゃうわけです。

助けってそんなに大きいことじゃなくても良くて、ただ普通に生きていれば「困ってそう」って思う場面はあるわけで、、

 

そこさえうまくできればなんとなく人生気持ち良いです。

 

一般的な社会って

 

「助けなさい、そういう役割だから」

「助けなさい、そういう場面だから」

 

みたいな決まりがないから、気づき勝負・機転勝負・勢い勝負・タイミング勝負・巡り合わせ勝負みたいなとこがあります。

 

だからこそ、できるかできないかは超個人差でます。

 

そもそも運命的な要素も絡んでいる以上、人の力になれる場面に出くわさない人もいます。

 

だから、ここぞという時にそれをつかめたら最高に気分が良いです。

 

私はそうやってカッコつけられるときに、しっかりカッコつけて、さっと逃げたい。笑

 

もっと言えば、どう足掻いたって一回きりの人生では、多くのことができる、多くの人を救えるなんて無理だと思っていて、、、

 

結局は自分の視界に入った物事・人にしか手に届かないです。

 

どんなに大きい物事を成し遂げたと思っていても、それは視界の範疇でしかないわけです。

 

それなら、視界に入った分だけはカッコつけておきたいなと思ってます。

 

視界に入った時点でそれは多くない運命だし、奇跡的なタイミング。

 

それをキャッチできたら私気持ちい→向こう感激→はい、win-win、みたいな笑。

 

web業界でMくなる私

 

今の私の仕事では、リサーチする、書く、考える、指摘する、整える、みたいなことを一生やってる感じです。

 

この仕事のやりがいは、上には上がいて、その上にはどんな上がいるのか想像つかないところです。

 

そして周りを見なくても回る世界だからこそ、周りを見ることさえ味方につければカッコつきます!笑

 

私は褒められることになんの快感も感じなくて、(ちょっと性格悪い人みたいで言いたくないけど、むしろなんで人間はそんな会話するんだ?なんの意味があって?とか思っているくらい。すみません。。)🤣

 

私の中で褒めは何も生まないけど、傷・悔しさ・苛立ちって物凄く物事を動かすパワーになると思っています。

 

この仕事をしてると、上の人が見えている世界が見たくて見たくて仕方なくて、でも届かなくて毎日悔しいです。

 

だって私超超超頑張って、やっと、本当にやっとの思いで今があると思ってますから!

 

やっとの思い出大手触れるようになって、そこで憧れの人に出会って、ついてくのに必死で何が何だかわからないまま仕事して、

 

やっとのやっとで役割もらえて、人にあーだこーだ言えるようになって、そしたら憧れの人が先日別の業界に行ってしまって、、、、!

 

「あなたを追いかけてきたんですよ私!!!!!!!!!???」となったわけです。

 

私にとってこの今の仕事はすごい大きいもので、簡単に就けるものでもないと分かるからこそ、

 

辞めようと思った人の視界が益々知りたくなるわけです。

 

そんな力を持った人は次にどんな世界を目指せるんだろう?どんなことできるんだろう?

 

それを手にするには何年?私には何が足りないだろう?みたいな感じで、上がいるほど焦ります。

 

私の心は寂しいんじゃなくて、焦ってるんですな。

 

余談(感情決めつけ女の話)

 

なんか人って、「哀」の感情ほど一緒くたにしがちだと思うんです。

 

誰かが泣いていると、その人が悲しいと断定しがちだし、親族が亡くなると、悲しいと断定しがちです。

 

私ちょっと前にお母さんが亡くなったんですけど、その時誰かに「寂しいでしょ?」って言われて、

 

「いや、でも、、、」って言いかけた時に「でもやっぱり寂しいでしょ?」って重ねられたから、「ああ、はい、、、」っていうしかなかったんです。

 

別に誰もが完璧に私の気持ち分かるべきとも思ってないけど、感情の決めつけって弊害大きいですよね。

 

たとえば子供がスポーツで負けて泣いている時に「悔しいんだろ?じゃあ練習頑張れ!」って言ったとして、

 

本当は「もう辞めたくてたまらない泣き」だったとしたら。子どもは否定できませんね。

 

親の決めつけで、やりたくもないスポーツに数年費やすという意味不明な期間を子どもに送らせてしまうわけです。

 

そして、我慢できなくなった時に「辞めたい」と言い出したら、「逃げだ!」「こんなに道具揃えたのに!」みたいな、決めつけとヒスの炸裂は想像に難しくないです。

 

最近アダルトチルドレンの本を友人から借りました。

最近は「自分が何をしたいか、何が好きなのか、何が楽しいのか」さえ分からない状況って起こりがちですね。

 

その本読んでたら子どもの頃に親ができることって、見つけてあげることだと思ったんです。

 

泣いていたら、「悲しい?」「悔しい?」「寂しい?」「嬉しい?」どんな感情が言葉にフィットするのか選んでもらうこと、

 

これがフィットしたんだね、そっかそっかってそのままを受け取ること、

 

出たままを正解とすること、そこに差をつけないことかなって思うんです。

 

決めつけの何が一番怖いかというと、親に感情を決めつけられてると、その子自身もその感情が本当だと誤解して生きていってしまうことです。

 

後々「生きがい、やりがい、好き」にフィットしてない感覚を自覚した時、

 

取り返しつかない無駄な時間を過ごさせられてきた感、制圧に気づいた感は大きいのですよ。

 

そして、自分の気持ちを深く分かる状態(=〇〇が好き、〇〇な気持ちが言える状態)にする方法は、自分の感情での練習に尽きます。

 

先輩が去ってザワザワするのは「寂しい」んじゃなくて、「焦る」が自分にとっての適切だと明記するのって、割と自分にとってすごく意味があります。

 

とまあこんな感じで今日は終わり!!

最近ヒロアカにハマってるから、次はそれ書こうかしらね♩